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『日本航空一期生』中丸美繪

日本航空一期生

日本航空一期生


経営破綻から稲盛イズムにより復活を果たした日本航空
親方日の丸の象徴のような会社で、その生い立ちに関して詳しく書かれた資料はあまりありませんでした…

松尾静麿(しずま)

この人こそ、戦後の日本で最初に航空会社を立ち上げた人物。

戦前より役人として主に日本の空港建設に携わり、国内航空に最も精通した人物として戦後はGHQとの交渉に立った。
GHQは日本人が飛行機を飛ばすことそのものを禁止した。
航空機や空港設備は破壊され、羽田空港をはじめ主要な空港は進駐軍に占拠された。
松尾はいつかは日本人の手で飛行機を、との思いから、設備がないと進駐軍だって空港が使えないから困るだろう、とGHQを説得し、設備の破壊だけは免れた。このとき設備を温存したから、日航は早期に運航を再開できたのだ。
その後国内での民間航空を復活させることとなったが、そこで海外資本による国内線網の構築を企てたのが吉田茂の側近、白洲次郎であった。
あくまで国内線は日本資本で、との思いを抱く松尾は真っ向から対立する。
結果として営業活動は日本資本で、運航は海外資本に委託するという形での日本資本による航空会社設立を勝ち取ったのだった。これが現在の日本航空の前身である。
銀座に小さな社屋を構えた日航ノースウエスト航空に運行を委託する形で運行を始めたもののわずか一年足らずで、もく星号墜落事故を起こす。これを気に運航も日航で行うべきとの機運が高まり、ようやく日航は独り立ちをする。
その後矢継ぎ早に路線を拡大し、設立20年足らずでBOACに次ぐ世界一周航路の開設にこぎつけ、日航は黄金期を迎える。
この急拡大した時期でも大きな死亡事故は起こさなかったのだが、そこには何よりも安全運行を優先した松尾社長と、整備部門の責任者である富永の存在が大きかったといえよう。
松尾の退任後、ニューデリーソ連で相次いで死亡事故が起きた。
病床にあった松尾はこの状況を憂い、日航の官僚気質を厳しく指摘した年頭挨拶の草稿を残したまま、この世を去った。
本書はここで終わっているが、その後の日航については周知の通りである。
黎明期の日航についてはスチュワーデス一期生のエピソードなどが詳しく載っているが、当時の熱気が感じられる。
松尾が退いてからの日航は、あきらかに何かが変わったのだろう。その果ての経営破綻であったが、稲盛和夫という強力なリーダーを得て、日航は復活した。
大きな船を導くには強力な船長が必要なのかもしれない。
ただし、船長の方針を実行するのは言うまでもなく一人一人の社員である。
方向を見失いはしたが、日航の社員はまだまだ飛行機を飛ばすことのプライドと熱意があるのだ。