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『昭和の大番頭 東急田中勇の企業人生〈上〉』本所次郎

昭和の大番頭―東急田中勇の企業人生〈上〉

昭和の大番頭―東急田中勇の企業人生〈上〉


東急を築いた人物といえば強盗慶太こと実質的な創業者の五島慶太と、息子の五島昇が有名です。
この二人を陰に日向に支えた大番頭が田中勇でした。
五島慶太、五島昇に関する本を読んでいると必ず出てくる田中勇の名前。五島昇をして「ケチ副(ケチな副社長)」といわしめたこの人物は何者だろうかと思い本書を手に取りました。

技術畑出身

副社長というからには事務畑出身だとばかり思っていましたが、田中勇は現在の東京工業大学を卒業し、技術者として目蒲電鉄に入社しました。
この時の面接官が五島慶太
田中は在学中でしたが、五島に「明日から来るように」といわれ「まだ卒業証書をもらっていない」と言うと「俺は卒業証書を雇うんじゃない。お前を雇うんだ」と応えたとか。人たらしでしられた慶太らしい逸話です。

東京高速鉄道(現東京メトロ)への出向

元住吉工場と本社で約9年技術者として勤務した後、渋谷~新橋を結ぶことを目指して設立された東京高速鉄道に技術系係長として出向します。当初は渋っていましたが、地下鉄建設という新たな仕事にやりがいを見いだしました。この時、新橋駅での折り返し時間短縮のためにアメリカから新技術を取り入れようとしますが、結局実現には至りませんでした。
ちなみに地下鉄に関しては東京高速鉄道の五島と、日本最初の地下鉄を建設した早川徳次の激しい攻防があり、これはこれでおもしろいです。

力づくで目蒲に帰任

無事に東京高速鉄道の開通にこぎつけた後、このまま目蒲に戻れないのではと考えた田中は上司に帰任を求めるも相手にされず、ならばと勝手に目蒲に出社し、空いている机を我がものにします。辞令もなしになんてことをするのかと思いますが、既成事実となり正式に辞令がおりて帰任となりました。この年(昭和14年)に目蒲と東横は合併し、東横電鉄となります。

大東急の車両部長に

戦時中の政策として東横電鉄は小田急電鉄、京浜電鉄(現在の京浜急行電鉄)、京王電気軌道(現在の京王電鉄)を合併して東京急行電鉄に社名変更、いわゆる「大東急」時代を迎えます。今の東京南西部の私鉄がすべて「東急」だった時代があったんですね。
この時田中は車両部長にあり、全社の車両を取り仕切る立場にありました。
元々別会社だったものをまとめたので、路線により電圧の違いや線路幅の違いがあり、管理は大変だったようです。

戦災復興

空襲により車両や工場は大打撃を受けて運行本数は激減。昭和21年に技術系の取締役となった田中は混雑の解消を目指して車両の復旧に務めます。今なら車両を新造するところでしょうが、資源が枯渇していた当時はそんな余裕がなく、部品の転用などで凌いだようです。この時の復興車両は後に東急3000系とよばれ、なんと1989年まで現役で走りつづけました。

常務取締役就任

昭和30年に取締役就任。この頃から本格的に五島慶太の右腕として東奔西走するようになります。

ここまでが上巻でした。

昭和の大番頭―東急田中勇の企業人生〈上〉

昭和の大番頭―東急田中勇の企業人生〈上〉


五島慶太に関する本

わが鐵路、長大なり 東急・五島慶太の生涯

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もう一人の五島慶太伝 (勉誠新書)

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