MINOTAKE LIFE

死ぬまで無事系サラリーマンの、身の丈に合った生活

願うことが出来る相手がいること。

『おこだでませんように』という絵本がある。家でも学校でも怒られてしまう少年が主人公だ。私はもう、このタイトルとすじ書きだけで泣ける。比喩ではなく、本当にまぶたが熱くなり、鼻がツンとしてしまう。

この少年の、なにか見えざるものに対して願う気持ちに。

その願いを叶えてくれる存在は、カミサマとかホトケサマではない。まず第一に、少年が怒られるようなことをしなければ怒られない。だが、怒られるようなことをしなくたって、親や先生、周りの大人たちの虫の居所によっては、理不尽に怒られる。つまるところ、怒られるかどうかは大人たちの気分次第なのだ。大人たちの気分は様々な要素で出来ている。今日担任の先生が機嫌が悪い理由は、通勤電車の中で足を踏まれた、ただそれだけかもしれない。そんな些細なことで大人の機嫌は悪くなり、少年は怒られる。とばっちりだ。残念なことに、大人からとばっちりを受けやすい子供はいる。そんな少年の願いは「おこだでませんように」。

願ったってしょうがないのだ。

でも、この少年には願うことができる目に見えざるものがいる。理不尽も何もかもひっくるめて、受けとめてくれる相手がいる。それはとても幸せなことだ。

私が、すべての物事は人の意思だということに気づいたのは思春期を迎えたころからだ。それでも何か見えざる意思というものの存在はどこかで信じていた。でも働くようになって、いよいよ人の意思でしか世の中は成り立っていないことがわかった。

カミサマホトケサマと言ったって、それは経済活動の側面を持っている。経済活動は人の意志だ。神の見えざる手なんかではない。

人の意思を持たない事象は、いま災害という形で突きつけられる。災害に遭わないに越したことはないが、どこか、人の意思をもたない事象が人の脅威となることに、ほっとしてしまう。地震よ収まってくれ、風よ大雨よ、やんでくれ。まだ、祈ることが出来る相手がいることに、安堵してしまう。そんな相手がいつもいる少年が、うらやましく思える。でも、この少年からもいつかはそんな存在がいなくなる。それがわかっているから、そのひたむきな「おこだでませんように」に打ちのめされてしまう。

 

おこだでませんように

おこだでませんように